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第39話 呼び出しと、銀食器の山①

Author: 花柳響
last update Last Updated: 2026-01-20 06:00:58

 何度目になるかわからない溜め息が、唇からこぼれ落ちた。

 目の前に立ちはだかるのは、見上げるほど高くそびえる門。私はスマホを握りしめたまま、その威圧感に気圧されないよう、足裏に力を込めて立つ。

 昨日、ようやくこの九龍家の本邸――人呼んで「伏魔殿」から解放され、湊が暮らすタワーマンションへ戻ったばかりだ。あの場所も仮初めの「愛の巣」に過ぎないけれど、ここよりはずっと呼吸がしやすい。

 それなのに、余韻に浸る暇さえ与えてはもらえなかった。今朝一番でスマホが震え、画面に表示された名前を見た瞬間、胃のあたりがずしりと重くなったのだ。

『おはようございます、茅野さん。志保です』

 受話器越しに響く声は、まるで薄氷のように冷たく、鋭い。湊の継母からの、直接の呼び出しだった。

『昨日はご挨拶だけで終わってしまいましたからね。……本日より、九龍家の嫁として相応しい振る舞いができるよう、私が教育いたします。九時に本邸へいらっしゃい』

 選択肢など、端から用意されていない口ぶりだった。

 湊に助けを求めようにも、彼は早朝からホテルでの会議に向かっていて捕まらない。残されていたのは、「行ってこい。何かあれば僕が対処する」という素っ気ないメッセージと、手配された送迎車だけ。

 対処するって、簡単に言ってくれるじゃない。

 これではまるで、猛獣が待ち構える檻の中に私を放り込んで、自分は安全な場所から見物しているようなものだ。

「……おはようございます」

 気持ちを切り替え、インターホンを押す。昨日と同じ、感情の読めない使用人が無言で門を開けた。

 通されたのは、昨日のお座敷のような客間ではない。屋敷の裏手にある、家政を取り仕切るための控室のような場所だった。消毒液とリネンの匂いが混じるその空間で、志保は既に私を待ち構えていた。

 今日の彼女は、昨日見たような訪問着姿ではない。上質で仕立ての良いパンツスーツを身に纏い、隙のない立ち姿でこちらを見据えている。これから始まるのが優雅なお茶会などではないことを、その装いが雄弁に物語っていた。

「時間通りね。……
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